ナゴタロの感謝日記

名古屋在住の50代前半、サラリーマンの日記です

明智光秀は、熱田から桑名まで船で渡ったことはあるか?

 

 


アーカイブス 江戸時代の名古屋CG(古地図と尾張名所図会)

 

 

おはようございます

ちょっとつかみを意識したタイトルですみません

愛知県とか岐阜県とか、ちょうど今住んでいるところの近くが、大河ドラマの舞台ということで、久しぶりに楽しんでみています

明智光秀さん・・・本当のところ、前半生はよくわからないそうですが、ドラマでは、思慮深くもあり、優しさもある、爽やかな人物に描かれてますよね


作り手の愛情が感じられるそんな作品に、なんとなくほっとしています

 

この間は、個人的にちょっと惹かれる町、熱田が登場したので、今回はちょっと詳しく皆様にご紹介できればと思います

 

1.江戸時代の熱田は、桑名までの海上交通の拠点だった

 

 江戸時代の名古屋といえば、この熱田と、名古屋城の城下町のこの二箇所が、繁華街と呼べる地域でした

 

この熱田には、「宮の渡し」とよばれる船着場があり、桑名まで「七里の渡し」という海上ルートを通っていくことになっていました

 

そして海上交通の拠点であった熱田は、熱田神宮門前町でもあり、東海道では桑名宿をおさえて、随一の宿場町でした

 

 

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宮の渡し(安藤広重

なぜ海を渡る必要があるのか?

 

その理由の一つは、濃尾平野を、木曽三川とよばれる、木曽川長良川揖斐川の大河が横切っていたということが背景にあります

 

陸路を分断し、しばしばその川筋が変化していたため、継続的な街道として定めにくかったということでしょうか

 

三重県の方言は、揖斐川を境に、関西方面のイントネーションが強いとされていますし、尾張と岐阜の国境は木曽川

 

川が、人々の移動を分断する、境界線であったことがわかります

 

また、熱田から桑名に向かう場合、海伝いだと距離が短いのですが、河口域は川幅も広い

 

そこで、比較的穏やかな伊勢湾を渡っていった方が良いという判断も有り得たのでしょう

 

なおご参考までに、ちょっとマニアックですが、熱田を含む濃尾平野の、大昔の時代と、江戸時代の比較を、Network2010から資料をお借りして、見てみましょう

 古代の名古屋と清洲城下 : Network2010.org

 

まずは、大昔の濃尾平野(上記サイトでは古代と書かれていますが、もっと古い時代が正しいと思われます)

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古代の地形

 

次に、江戸時代(古代との比較付き)

 

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川筋が乱れていたのがわかります

難儀ですね、、、

 

 

2.海上ルートを、江戸時代に東海道とした本当の理由は?

 

では、江戸時代の前には、海上ルートが一般的だったのかというと、律令時代の東海道は、船を使わず、木曽三川下流域を渡る陸地ルートでした


ただ、川を渡るのは難儀なので、海上ルートも使われていたようです

 

そういう面では、徳川家康は、ツール(船)を使った合理的なルートを取ることを決断したとも言えます

 

一方、もっと大きく捉えて、三河尾張と京を結ぶルートそのものについて考えてみます

 

さきほどふれた、律令時代の東海道も含めて、鈴鹿峠越えというのが、江戸時代までオフィシャルなルート(仮称:南ルート)でした

gpscycling.net

 

一方、江戸時代でも、熱田宿(宮宿)から美濃路とよばれる、脇往還とよばれる道も使われていたようです

 

こちらは、関ヶ原を越え、琵琶湖沿いにいく、中山道を一部使用したルート(仮称:北ルート)です

 

山越えの険しさや、木曽三川下流域を越えることの難儀な状況をふまえると、距離は遠いのですが、さらに合理的なルートでもありました

 

東海道新幹線は、当初鈴鹿峠の下にトンネルを掘るルートも考えられましたが、工事の難しさや工期の関係で、こちらの北ルートを採用しています

東名高速も同じく北ルートです

 

ちなみに、かつての関西本線(目的地は大阪ですが)や、出来て間もない新東名高速は、距離的に有利な、三重・奈良を経由する南ルートを採用しています

 

これから建設するリニアも同様なので、南ルートも健在です

 

以下は私見です

 

話を戻すと、徳川家康は、北ルート、つまり関ヶ原越えのルートを、あえてオフィシャルな東海道として採用しなかったのではないでしょうか

 

それは、軍事ルートとして使われるおそれがあったからではないかと考えました

 

実際、家康たちが関ヶ原の戦いで使ったルートになります

 

またもう一つわかることは、当時の名古屋城の城下町は、東海道上に無いということです

 

城下町の南に位置する熱田宿は、れっきとした東海道上に位置しますが、そこから数キロ北に位置する名古屋城は、メインの動線から少し距離を保っていることになります(美濃路は、城下町を通過しますが)

 

つまり、参勤交代などで行き来する大名たちは、名古屋の城下町に大手を振っては入れない

 

余談ですが、いまでも排他的といわれる名古屋の街の風土は、こんなことも影響しているのかもしれません

 

こうした自然地理的な背景と、政治的な背景が相まって、江戸時代には、熱田から桑名への海上ルートが確立されたのではと考えました

 

 明智光秀は、海上ルートを使ったことはあるか?

 

さて、前置きが長くなりました

冒頭の問いは、江戸時代以外には成立しない問いだったかもしれません

 

いずれにしても、長島の戦いにも参陣しなかったされる明智光秀は、あまり海とは縁が無かったと思われます

 

大河ドラマでは、海からやってくる織田信長を、浜辺で迎える明智光秀の姿が描かれいます

 

美濃で生を受けた明智光秀

 

明智氏の末裔という噂もある坂本龍馬は、海援隊をつくり、世界に視野を広げました

 

光秀自身、もっと海上交通や貿易などにも明るければ、また違う人生もあったのかもしれないと思いました

 

今日は日曜日… 今日の大河ドラマは、先週の続きからかもしれませんが、戦国時代がまだまだ続きます 

TVで描かれたような、熱田の町の繁栄は、実際はもう少し先のことだったかもしれません

 

それでは、残り少ないですが良い週末を