おはようございます
昨日は、学生時代からの友人に会いに、京都に日帰りで行ってきました
そこで、京都駅からも15分くらいで歩いていける三十三間堂まで足を伸ばしました
学生時代、関西に住んでいましたが、まったく訪れたことがありませんでした
まずは、外観ですが、横120mというスケール感があります
京都の街で現存している建物としては2番目に旧い建物で、1266年築(鎌倉時代)
元々は、後白河上皇に対して、平清盛が1164年に寄進したもので、80年余りで焼失したもののの、すぐに再建されたそうです
そして、中に足を踏み入れると、千体もの金色の観音様が、縦横に整然と立ち並ぶ姿には圧倒されました
この内、124体は、1164年創建時のものだそうです
その観音様をお守りする、インド起源の神々に由来する仏像が、周りを取り巻いています
その1つが、阿修羅像
興福寺の阿修羅像は、少年を模しているといわれるだけあって、かなり上品な感じがしますが、三十三間堂のそれは、言葉通り、修羅そのもの、憤りに満ち満ちています
(写真が無くてごめんなさい、下の「仏像リンク」の二十八部衆の項目から探せます)
【見仏入門】No.2 京都・三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)の仏像/国宝千手観音坐像・千手観音立像・二十八部衆など | 仏像リンク
たまたま、そこで、あるツアーのガイドさんの話を横で聴くことができました
阿修羅は、もともとは天界の神様
でも、六道では、人間道の下にある
それはなぜか
六道とは、仏教の考え方で、輪廻転生する6つの世界のことで、
上から、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道とあります
天道は苦しみが無い清浄な世界、
その下が、今私達がいる人間道、
さらに続けると、下には、修羅道をはさんで、畜生道が、虫や動物の世界、
餓鬼道は、常に飢えと乾きに苦しむ世界
地獄道は、罪を償わせるための世界
とされます
修羅道はというと、終始戦い、争う世界
苦しみや怒りは絶え間ない
そして、その苦しみは、自分自身に帰結しているとされます
阿修羅は、そこにちりが一つ落ちていても、許せないそうです
自分が正しいと信じる正義、それに合わないものに対して生じる怒り、憤り、そして正そうとする行為
宮沢賢治といえば、「銀河鉄道の夜」をはじめ、清冽な文学を書き続けた作家という印象がありますが、本人は、怒り、憎しみ、嫉妬といった感情から脱しきることができずに、つねに焦燥感に駆られていたという、話をきいたことがあります
煩悩から一番遠い所にいたように見える、宮沢賢治でさえも、むしろ対峙し続けなければならなかった、そういった感情
そもそも、戦争は、兵器産業が人為的に起こしているという考え方もありますが、”報復”も原因にあります
たとえば、貧困、家族に危害を加えられたことなどへの「怒り」「憎しみ」「嫉妬」が、本来正義はこうあるべき、という修羅が引き起こしています
話が少し大きくなりましたが、自分自身も修羅と同じ面を持っていると思います
メンバーに対して、"良かれ”と思って、他のメンバーもいる職場のデスクで、すこしきつい口調で言ってしまいます
しかも家に帰ってくると、何でわかってくれないんだろう、せっかく言っているのに、なんであんな態度なんだとか・・・
2重の意味で問題がありました
一つは、たまたま昨日あった友達の一人はインドネシアで働いていますが、気をつけていることとして、みんなのいる前では叱ったりしないそうです
タイでもそうですが、日本人も含めて、アジア人は、農村などの共同体で、みんなと同じであることを重んじ、またプライドも高いので、人前で恥をかいたという状況になるのはすごく傷つく
また、もう一つは、まさに、修羅道で、自分の「正義」を振りかざしていることに他ならない
もちろん人間は弱いものです
自分が自分とする約束
これはみんなで決めたんだからという信頼を崩したくないという思い
は必要
でも、こうしなきゃいけないよ、とか、こう考えるべきであるといったべき論は
どれも自分発信の正義の延長線上にしかすぎない
教え諭すならまだ良くても、職場でときに「これが相手にとっても良いこと」だからと”敢えて厳しくやっている”ことは、自己満足に過ぎないということを気付かされました
三十三間堂の阿修羅像と、周りの人にも教えてくれたガイドさん、有難う
秋の京都は、本当にびっくりするくらい人が多かったけれど、美しい紅葉よりも何より、「正義に固執しすぎることの愚かさ」を学びました
今日はすこし肌寒いですが、晩秋の穏やかな一日になりそうです
皆様の今日一日が、穏やかで満ち足りたよい時間になりますように