おはようございます
夜明け、刻々と周りの景色がうっすらと見え始めてきます
毎日、あきずに繰り返してくれる、この光景
「晴れ」の日は、朝早く起きれば、すがすがしい気持ちを味わうことができます
今日は、「はれ、け、けがれ」という考え方と、私達の日々の過ごし方についてふれてみたいと思います
「はれ」は、よく「晴れの日」と言いますが、非日常で、それこそ「晴れがましい」、「心が晴れる」状態を指します
「け」は、実は食べ物をさしていて、日常を指します
「御食国」と書いて、「みけつくに」と呼びますが、古の頃、大王(天皇)に、海産物を貢いだとされる「志摩国」がそれにあたります
「けがれ」は、穢れとも書きますが、もっと直接的に、汚れといってもよいでしょうか
私たちは、当たり前ですが、毎日食べ物を食べないと生きられませんから、これが日常というのも、そういえばそうですね
そうして、日々暮らしていると、ゴミが出ます
物理的な汚れです
心に澱がたまります
精神的な穢れです
ゴミは見えやすいですが、精神的なもやもやは、本人も気付かないかもしれない
家庭は家庭で
会社は会社で
それは、人が社会生活を営んでいく上で、人付き合いをしていく中で、やむを得ない気がします
ただ、その心の澱が閾値を越えてしまうと、大変なことになります
仕事が忙しすぎたり、職場でのストレスが続いたり、あるいは何かの喪失感から立ち直れなかったりすると、心の病をもたらすかもしれません
この「ケ」が続いて「ケガレ」が溜まることに対して、「ハレ」によって、”一掃”することが大事になってきます
「ケガレ」は、何となく印象も良い、悪いというイメージつきで”ラベリング”されそうですが、人にとって免れ得ないもの、いわば人が生きる上で、必要な定めとしてつきあっていくものだと思います
最近、私が気になっている「遊び」という行為は、日々の小さな「ハレ」をつくるための、無意識のイベントだとも思います
ただ、今日お伝えしたいことは、なぜ僕があんまり「遊び」が無くても、なんとか?正常に生きていけるのか
それは、「断捨離」や「掃除」をしているからではということを発見したことです
私の部屋には、本が沢山ありますし、古くからの友人にはよく、「いい本があったら教えてくれ」と言われます
これは自慢ではなくて、あーいかに、おれは頭でっかちに生きてきてきたんだなーといいう反省につながっています
その本たち、これまでの私の人生の第〇の伴侶?を、どんどんと手放しています
そう、メルカリを使った断捨離です
それから、最近実は気に入っているのが、自分の娘の上履きを洗うことです
単なるMでは?
いえ、ブラシで力づよくこすると、泡がもしゃもしゃと立って、靴の前の方の黒いところが、落ちていくのが、すがすがしいんです
つまり、「断捨離」や「掃除」が、日々の小さな「晴れ」をつくってくれていると思うんです
よく、禅の世界では、掃除がとても大事だと聞きます
最近、朝、隣の一般職の女子社員が、同じ島の他のメンバーの机を拭いてくれています
かなりのベテランの方で、昭和的な光景にも思えますが、「掃除」によって、自分自身、職場に「晴れ」をもたらしてくれているのかもしれません
日々の「け」によって、「けがれ」がつもる
物理的な「けがれ」は、「掃除」によって
精神的な「けがれ」も、「掃除」を通じて、
日々の小さな「晴れ」をもたらす機会を重ねていければと思います
長くなりますが、さらに、僕にとっては、日々のジョギングが、精神的な「けがれ」を振り落とす、ルーティーンになっていますが・・・
それでは、皆様、今日も元気に、行ってらっしゃい!