ナゴタロの感謝日記

名古屋在住の50代前半、サラリーマンの日記です

日々の小さな「晴れ」を持ちたいですね・・・

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おはようございます

夜明け、刻々と周りの景色がうっすらと見え始めてきます

 

毎日、あきずに繰り返してくれる、この光景

 

「晴れ」の日は、朝早く起きれば、すがすがしい気持ちを味わうことができます

 

今日は、「はれ、け、けがれ」という考え方と、私達の日々の過ごし方についてふれてみたいと思います

 

はれ」は、よく「晴れの日」と言いますが、非日常で、それこそ「晴れがましい」、「心が晴れる」状態を指します

 

」は、実は食べ物をさしていて、日常を指します

御食国」と書いて、「みけつくに」と呼びますが、古の頃、大王(天皇)に、海産物を貢いだとされる「志摩国」がそれにあたります

 

けがれ」は、穢れとも書きますが、もっと直接的に、汚れといってもよいでしょうか

 

私たちは、当たり前ですが、毎日食べ物を食べないと生きられませんから、これが日常というのも、そういえばそうですね

 

そうして、日々暮らしていると、ゴミが出ます

物理的な汚れです

 

心に澱がたまります

精神的な穢れです

 

ゴミは見えやすいですが、精神的なもやもやは、本人も気付かないかもしれない

 

家庭は家庭で

会社は会社で

 

それは、人が社会生活を営んでいく上で、人付き合いをしていく中で、やむを得ない気がします

 

ただ、その心の澱が閾値を越えてしまうと、大変なことになります

 

仕事が忙しすぎたり、職場でのストレスが続いたり、あるいは何かの喪失感から立ち直れなかったりすると、心の病をもたらすかもしれません

 

この「ケ」が続いて「ケガレ」が溜まることに対して、「ハレ」によって、”一掃”することが大事になってきます

 

「ケガレ」は、何となく印象も良い、悪いというイメージつきで”ラベリング”されそうですが、人にとって免れ得ないもの、いわば人が生きる上で、必要な定めとしてつきあっていくものだと思います

 

最近、私が気になっている「遊び」という行為は、日々の小さな「ハレ」をつくるための、無意識のイベントだとも思います

 

ただ、今日お伝えしたいことは、なぜ僕があんまり「遊び」が無くても、なんとか?正常に生きていけるのか

 

それは、「断捨離」や「掃除」をしているからではということを発見したことです

 

私の部屋には、本が沢山ありますし、古くからの友人にはよく、「いい本があったら教えてくれ」と言われます

 

これは自慢ではなくて、あーいかに、おれは頭でっかちに生きてきてきたんだなーといいう反省につながっています

 

その本たち、これまでの私の人生の第〇の伴侶?を、どんどんと手放しています

そう、メルカリを使った断捨離です

 

それから、最近実は気に入っているのが、自分の娘の上履きを洗うことです

 

単なるMでは?

 

いえ、ブラシで力づよくこすると、泡がもしゃもしゃと立って、靴の前の方の黒いところが、落ちていくのが、すがすがしいんです

 

つまり、「断捨離」や「掃除」が、日々の小さな「晴れ」をつくってくれていると思うんです

 

よく、禅の世界では、掃除がとても大事だと聞きます

 

最近、朝、隣の一般職の女子社員が、同じ島の他のメンバーの机を拭いてくれています

 

かなりのベテランの方で、昭和的な光景にも思えますが、「掃除」によって、自分自身、職場に「晴れ」をもたらしてくれているのかもしれません

 

日々の「け」によって、「けがれ」がつもる

 

物理的な「けがれ」は、「掃除」によって

精神的な「けがれ」も、「掃除」を通じて

 

日々の小さな「晴れ」をもたらす機会を重ねていければと思います

 

長くなりますが、さらに、僕にとっては、日々のジョギングが、精神的な「けがれ」を振り落とす、ルーティーンになっていますが・・・

 

それでは、皆様、今日も元気に、行ってらっしゃい!