みなさん、こんばんは
夜も大分更けてきました
この写真は、以前よく通っていた、油そばのお店のトイレにおいてありました
「私が自分のために働いているときには、自分だけしか私のために働かなかった。」
「しかし、私が人のために働くようになってからは、人も私のために働いてくれたのだ。」
さきほどスマホの写真を整理していたら出てきて、良い言葉だなーと思いまして、ご紹介致しました
本題に入ってまいります
今、会社ではちょうど上半期の実績評価中
私はメンバーと面談をして、面談シートに評価を書くことになります
ちなみに、ここ最近、結構本気で評価します
今までは、私が評価を書く場合も、私が評価を書かれる場合も、大体、「良くやった」とか、「こういうところは良かった」とか、いいことが、なんとなく並べられていました
面談自体も、「よくがんばってくれた」という感じで、さらっと終わってしまいます
結局、本音で話す場というより、部下のガス抜き、お疲れ様という声がけの場
大過なく、一応面談しましたという、形骸化したものだったと感じます
私も、もちろんかなり配慮はしますが、どうしても、ここは言っておきたいということは、ストレートに書いたり、伝えたりすることにしました
また、それとは別に、評価表も、甘くも辛くもせず、メンバーに対する見方を詳細に補足して、上に出しています
なぜ、本気で評価を書くかというと、私が感じていることを率直に伝えて、本人に気付いてもらいたいという思いが強くなってきているからです
ただ気になるのは、「評価」という行為自体に、問題が内在しているように思えてならないのです
悪い評価は、そのメンバーを将来に向けて良い方向に導いていくために、心を鬼にして、きちんと伝えようという教育的な目的が、もっとも大事だと思っています
ただ、実際には、私が「評価」する行為を通じて、そのメンバーを「ラベリング」してしまっているような気がします
皆さん、ラベリング理論について、お聞きになったことはありますか?
1960年代にシカゴ学派の人たちが考えたもので、たとえば、”不良”というのは、客観的には存在しないということなんです
「逸脱などの行為は、他者からのラベリング(レッテル貼り)によって生み出される」そうです
学校でのクラスでのたとえ話をします
先生が、みんなの前で、一部の子供たちを「あなたがたはできる」と言います
また、別の一部の子供たちには「あなたがたはできない」と言います
実は、どちらの子供たちにも、まったく差異はなかったのに、半年後、本当に、「ラベリング」した通りになってしまったそうです
これは、その人の周りの人たちが、それに応じた扱いをしていってしまうがゆえに、その人の傾向がそちらに強まってしまうのだということらしいです
それがあっていれば、「評価」をするということは、
・私自身
・対象となるメンバー
・評価の報告先である、私の上司や会社
のラベリングにつながってしまうおそれがある
皆、私のつけた「評価」に惑わされてというか、潜在意識に刷り込まされて、「ラベリング」を、そのメンバーに下してしまうのではないでしょうか
今、結構、そういう意味で、私自身、いやな気持ちになっています
本当に、思い切って率直に評価したことは、あまりにナイーブすぎる行為ではなかったかと
来週は、メンバーがそれぞれの良さを発揮できて、活躍できている状態を、描いていきたいと思っています
まず、自分から、それぞれのメンバーに対して良いラベリングを張りなおしていきたいと思います
評価は、人としての価値を示すものではないですが、ともすると、そうなりがちな気がしますので、本当に気をつけたい
そして、一人一人、こんな感じで活躍している・・・みたいな将来の姿を、できればメンバーと語り合ってみたいです
それでは、今日はこの辺で
少しずつ寒なってきてます・・・(関西弁で)
風邪ひかんように、皆さんもお気をつけください
おやすみなさい