ナゴタロの感謝日記

名古屋在住の50代前半、サラリーマンの日記です

七本指のピアニスト 西川梧平さんが教えてくれた 「不完全さを嘆くより、今あるものに感謝し、自分自身で在り続けること」

 


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西川梧平さん

 

皆様、大変ご無沙汰してます

ナゴタロです

コロナと共存していく日々、わずか半年前までは想像だにしていませんでしたが、

最近の豪雨も然り、人知の及ばない力をあらためて感じます

 

ブログを書く時間が無いと言い訳していましたが、自分が感じたり考えたことを残していくとすれば、この場が良いのではと改めて思い、再開いたします

 

拙い文章かもしれませんが、できるだけ率直に書きたいと思いますし、読んでいただける皆様にでも少しでも何か感じていただければと思っております

 

今日は、七本でピアノを演奏する西川梧平さんについて

 

<目次>

1.西川梧平さんのこれまで

2.私が感じ考えたこと

 

1.西川梧平さんのこれまで

日常は十本指が使える西川さんですが、ピアノを弾くときには左手は二本しか使えない

ジストニアという難病だそうですが、1999年に渡米してから21年間、アメリカや

ヨーロッパを中心に、演奏活動をされているそうです

 

ピアノをはじめたのは15才だそうですから、だいぶ遅いスタートですね

学校のブラスバンドでチューバを担当していたそうですが、音大受験にはピアノが

必須ということで先生に習い始めたら、直観でピアノをやりたいと思い立ったそうです

 

狂がつくほどめちゃくちゃ練習したそうです

本人曰く、練習はきらいだけど、毎日15分はやるようにと言われて、でも始めると、

8~10時間はぶっつづけて練習してします

写譜もすれば、逆再生、目隠しまでしても、打ち込んでいく

 

ただ、音大の短大コースに入って、四年制への編入がうまくいかなかったころ、あるアメリカ人の先生に声をかけられて渡米します

 

そこで学んだ大事なことは、”Find Your Own Voice"

 

表面的なテクニックではなく、「音の中の音を聴く」ことを大事にして、

消えていく音の中にある音を聴き、そこに音を重ねていくよう心がけたそうです

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そのために、一曲を仕上げるのにも、普通の人の何倍もの時間をかける

 

そしてとうとう「リンカーンセンター」という有名な場所で演奏できるようになりますが、西川さんのピアノは邪道だという批判を受けます

 

それから、自分を追い込んで練習すればするほど、あるときから段々と指が動かなくなってきてしまう

 

5人の医師から、もうピアノは弾けないと宣告され、ジストニアと診断されます

 

そして、清掃や介護の仕事で食いつなぐようになります

 

そんな中、たまたま幼稚園で子供達にピアノを弾いてあげるアルバイトに行った時、

当時動いたのは5本の指

 

でも、「きらきら星」を弾いたとき、子供たちは心から、楽しそうに、うれしそうに

それを聴いて歌います

 

その時に、はっと気づきました

 

なんかええやん・・・

この5本の指でできることあるんや

自分自身も、演奏できることに楽しさ、うれしさを感じます

 

それから、7本まで指が復活し、いつしかジストニアに罹患する前よりも、もっと

著名なピアニストになっていきます

 


西川 悟平 NHK ドキュメンタリー

 

2.私が感じ考えたこと

去年の9月、10月と、私の仕事が忙しくなり、というかあるイベントを担当したのですが、かなりプレッシャーを感じて、苦しい日々を送っていました

 

なぜかどんどん体重が減っていき、朝のジョギングで何とか気持ちをリセットして会社に行っていたのですが、思考力、判断力も落ちている中、時間をかけることでなんとかカバーしていました

 

今思うと、他の人のいろいろな期待を、自分が”望んで”受け止めて、自分の心や身体の声を無視してしまい、義務感=責任感と履き違えていたことが原因だと思います

 

別の面からみると、自分に足りないものに焦り嘆き、求められるものに応えようとカタチにこだわりすぎていました

 

今思うのは、西川さんのエピソード

幼稚園の子供たちが喜んでくれたときのこと

 

彼が教えてくれたことは、次のようなことでした

 

◆自分自身の率直な思いを大事にする

→ 義務感でやっても、どこかで無理がでてくるし、心を不健康にする

→ やっててうれしいとか、充実しているとか、自分の気持ちに耳を傾ける

 

◆相手の気持ちを大事にする

→ 表面的な要望を額面通りに受け止めるのではなく、相手にとって本当に大事なことに応えられるように率直に投げかけてみる、対話する

 

◆できる範囲でベストをつくす

→ 今の自分なら、早寝早起き、ジョギングのように、自分の身体や心の状態を大切にしながら、良い状態だからこそ、いい仕事ができるようベストをつくす

 

◆なるようになる

→ 一生懸命ベストをつくすことと、執着することは違う

 ある意味なるようにしかならないし、なるようになる

 

◆自分との距離感、周りの人との距離感をたもつ

→ 相手の期待に応えることに焦点をあてすぎたり、起こっていることのマイナス面に囚われすぎない

=自分の負の感情に押し流されない

 

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いろんな事にぶつかったとき、西川さんのお話も思い出しながら、こういったことに心を留めていきたいと思います

 

西川さん、メデイア「致知」「NHK」、読書会の皆様、有難うございました

そして、この記事を読んでいただいた皆様、有難うございます

 

よい金曜日をお過ごし下さい

 

ナゴタロ

7月24日 10:50

コロナ「感染対策」/ 娘からもらったガイドブック

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おはようございます

上の写真は、ジョギングの途中で目に入った、家の近くで咲いていた花です


寒さが和らぐこの季節、お互い寄り添って何かを伝えたいかのような花々の表情に、心が癒されます

 

もっとも、娘の塾のテキストに、花が鮮やかなのは、虫たちがそこに止まって、そこにくっついた花粉を運んでもらうためと書いてあるのをみて、


生きるための逞しい知恵の現れでもあるんですね

 

さて、タイトルに関係する話ですが、先週の木曜日は、前日から泊りがけで東京に出張して、会社のイベントの事務局の仕事でした


ちょうど水曜日の夜に都知事の会見があり、かなり微妙なタイミングとなってしまいました

 

もともと規模を縮小し、内容も簡素化していたので、そのまま続行したのですが・・・

 

当日の朝、開催の有無について、問い合わせを受け、、、臨機応変に、問い合わせへの回答に、配慮が必要だったと反省しました

 

そして、東京に行く前に、小学生の娘から「感染対策」なるガイドブック?を渡されました

 

結構なページ数を費やして、手書きで書いていて、せっかくなので、ブログでご紹介することにしました

 

親バカということで、お目通しいただければ幸いです

 

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明智光秀は、熱田から桑名まで船で渡ったことはあるか?

 

 


アーカイブス 江戸時代の名古屋CG(古地図と尾張名所図会)

 

 

おはようございます

ちょっとつかみを意識したタイトルですみません

愛知県とか岐阜県とか、ちょうど今住んでいるところの近くが、大河ドラマの舞台ということで、久しぶりに楽しんでみています

明智光秀さん・・・本当のところ、前半生はよくわからないそうですが、ドラマでは、思慮深くもあり、優しさもある、爽やかな人物に描かれてますよね


作り手の愛情が感じられるそんな作品に、なんとなくほっとしています

 

この間は、個人的にちょっと惹かれる町、熱田が登場したので、今回はちょっと詳しく皆様にご紹介できればと思います

 

1.江戸時代の熱田は、桑名までの海上交通の拠点だった

 

 江戸時代の名古屋といえば、この熱田と、名古屋城の城下町のこの二箇所が、繁華街と呼べる地域でした

 

この熱田には、「宮の渡し」とよばれる船着場があり、桑名まで「七里の渡し」という海上ルートを通っていくことになっていました

 

そして海上交通の拠点であった熱田は、熱田神宮門前町でもあり、東海道では桑名宿をおさえて、随一の宿場町でした

 

 

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宮の渡し(安藤広重

なぜ海を渡る必要があるのか?

 

その理由の一つは、濃尾平野を、木曽三川とよばれる、木曽川長良川揖斐川の大河が横切っていたということが背景にあります

 

陸路を分断し、しばしばその川筋が変化していたため、継続的な街道として定めにくかったということでしょうか

 

三重県の方言は、揖斐川を境に、関西方面のイントネーションが強いとされていますし、尾張と岐阜の国境は木曽川

 

川が、人々の移動を分断する、境界線であったことがわかります

 

また、熱田から桑名に向かう場合、海伝いだと距離が短いのですが、河口域は川幅も広い

 

そこで、比較的穏やかな伊勢湾を渡っていった方が良いという判断も有り得たのでしょう

 

なおご参考までに、ちょっとマニアックですが、熱田を含む濃尾平野の、大昔の時代と、江戸時代の比較を、Network2010から資料をお借りして、見てみましょう

 古代の名古屋と清洲城下 : Network2010.org

 

まずは、大昔の濃尾平野(上記サイトでは古代と書かれていますが、もっと古い時代が正しいと思われます)

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古代の地形

 

次に、江戸時代(古代との比較付き)

 

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川筋が乱れていたのがわかります

難儀ですね、、、

 

 

2.海上ルートを、江戸時代に東海道とした本当の理由は?

 

では、江戸時代の前には、海上ルートが一般的だったのかというと、律令時代の東海道は、船を使わず、木曽三川下流域を渡る陸地ルートでした


ただ、川を渡るのは難儀なので、海上ルートも使われていたようです

 

そういう面では、徳川家康は、ツール(船)を使った合理的なルートを取ることを決断したとも言えます

 

一方、もっと大きく捉えて、三河尾張と京を結ぶルートそのものについて考えてみます

 

さきほどふれた、律令時代の東海道も含めて、鈴鹿峠越えというのが、江戸時代までオフィシャルなルート(仮称:南ルート)でした

gpscycling.net

 

一方、江戸時代でも、熱田宿(宮宿)から美濃路とよばれる、脇往還とよばれる道も使われていたようです

 

こちらは、関ヶ原を越え、琵琶湖沿いにいく、中山道を一部使用したルート(仮称:北ルート)です

 

山越えの険しさや、木曽三川下流域を越えることの難儀な状況をふまえると、距離は遠いのですが、さらに合理的なルートでもありました

 

東海道新幹線は、当初鈴鹿峠の下にトンネルを掘るルートも考えられましたが、工事の難しさや工期の関係で、こちらの北ルートを採用しています

東名高速も同じく北ルートです

 

ちなみに、かつての関西本線(目的地は大阪ですが)や、出来て間もない新東名高速は、距離的に有利な、三重・奈良を経由する南ルートを採用しています

 

これから建設するリニアも同様なので、南ルートも健在です

 

以下は私見です

 

話を戻すと、徳川家康は、北ルート、つまり関ヶ原越えのルートを、あえてオフィシャルな東海道として採用しなかったのではないでしょうか

 

それは、軍事ルートとして使われるおそれがあったからではないかと考えました

 

実際、家康たちが関ヶ原の戦いで使ったルートになります

 

またもう一つわかることは、当時の名古屋城の城下町は、東海道上に無いということです

 

城下町の南に位置する熱田宿は、れっきとした東海道上に位置しますが、そこから数キロ北に位置する名古屋城は、メインの動線から少し距離を保っていることになります(美濃路は、城下町を通過しますが)

 

つまり、参勤交代などで行き来する大名たちは、名古屋の城下町に大手を振っては入れない

 

余談ですが、いまでも排他的といわれる名古屋の街の風土は、こんなことも影響しているのかもしれません

 

こうした自然地理的な背景と、政治的な背景が相まって、江戸時代には、熱田から桑名への海上ルートが確立されたのではと考えました

 

 明智光秀は、海上ルートを使ったことはあるか?

 

さて、前置きが長くなりました

冒頭の問いは、江戸時代以外には成立しない問いだったかもしれません

 

いずれにしても、長島の戦いにも参陣しなかったされる明智光秀は、あまり海とは縁が無かったと思われます

 

大河ドラマでは、海からやってくる織田信長を、浜辺で迎える明智光秀の姿が描かれいます

 

美濃で生を受けた明智光秀

 

明智氏の末裔という噂もある坂本龍馬は、海援隊をつくり、世界に視野を広げました

 

光秀自身、もっと海上交通や貿易などにも明るければ、また違う人生もあったのかもしれないと思いました

 

今日は日曜日… 今日の大河ドラマは、先週の続きからかもしれませんが、戦国時代がまだまだ続きます 

TVで描かれたような、熱田の町の繁栄は、実際はもう少し先のことだったかもしれません

 

それでは、残り少ないですが良い週末を

 

 

新型コロナウイルスがはやるとなぜトイレットペーパーが品薄になるのか?

 

命題コレクション 社会学 (ちくま学芸文庫)

命題コレクション 社会学 (ちくま学芸文庫)

  • 発売日: 2011/12/01
  • メディア: 文庫
 
 

 おはようございます

今日は、午前休をもらいました

サラリーマンの有り難さを感じつつ、ブログを書いています

 

ニュースを聞いて、久しぶりに社会学の命題にあてまはる社会現象があったので、ご紹介します

 

私は、東京出身ですが、社会とか組織とか人とか・・・そんなことを追求してみようということで、とある大阪の大学と学部を選びました

 

今なら「そんなこと勉強するもんやない」とも、半分くらい思いますが

 

社会学というのが、その学部の三本柱の一つなのです

 

最近、トイレットパーパー品薄というメデイアの報道をききます

 

実際、近所のスーパーや薬局でも売り切れになっています

 

オイルショックのときに起こったといわれる社会現象(教科書で知りました)の再現でしょうか

 

そして、社会学の命題を思い起こします

 

人が集団になると、やっぱりこうなるやな、という感です

 

「予言の自己成就」

 

 私が学生時代に買った社会学の「命題コレクション」に、しっかりと載っています

 

昔、静岡県で女子高生2人が街頭で、

「あの銀行ちょっと危ないらしいで」

「ホンマに?」

(今日は関西弁バージョンで)

 という会話を交わしたところ、その銀行は、取り付け騒ぎになってしまい、数日後に倒産してしまったという逸話

 

この話は、別の本からの引用ですが、命題コレクションでは、こんなふうに定義しています

 

”人間は単に状況の客観的な特徴に反応するだけだではなく、自分たちにとってこの状況がもつ意味に対しても反応する”

 

”しかも、この後者に対する反応のほうが時には主になる”

 

そして、

”ひとたび人びとがなんらかの意味をその時の状況に付与すると、それに続いて為される行為やその行為の結果は、この付与された意味によって規定される”

  

現代史を遡ると、関東大震災直後の「朝鮮人」に対する行為、「大東亜戦争」への突入に至る世論

 

わかりやすい国外の例でいえば、「文化大革命」・・・

 

政治的な話題は、皆さんの気分を害されるもしれませんが、ポピュリズムはこの命題を良くも悪くも活用した施策だと思います

 

今日は、トイレットペーパーが品薄になるという”ニュース”と、実際に家族が体験した話から思い出したことを書いてみました

 

社会学・・・ちょっと皮肉っぽいけど、オモロイんちゃう 

失礼しました

 

今日は、斜に構える自分が出ました

午後から会社に行ってきます

 

よい一日を

 

ナゴタロ

 

50代の仲間入り、~賃下げ圧力、中高年に集中~ 「逆境を生きる」(城山三郎)

逆境を生きる

 

1.復帰のご挨拶

 

皆様、大変ご無沙汰しております

ナゴタロです

気がついてみれば、去年の春から更新しないまま、月日が過ぎてしまいました

 

仕事、職場での日々に、気持ちの余裕が持てない時期が長くなり、いつの間にか、ブログを書く意欲も薄れていました

 

もっと言うと、いわゆる自己嫌悪に陥っていて、鬱々としていました

 

それが、漸く、ここ1ヶ月位で、考え方が変わってきました

 

自分の気持ちにばかり焦点をあてて、境遇を嘆いたり、自分を責めていても、何も生まれない


というか、折角この世に生まれてきて(あるいは生まれることを選んで)これたのに、そういう決断をした当時の自分?に失礼

 

100か零かみたいな思考じゃなく、この与えられた環境や自分自身をまず認めた上で、どこまで人生を投げ出さずに、前に歩いていくかしかない・・・

 

そう思えるようになってきました

 

 

2.WILLが原点、「逆境を生きる」の3人の男たち

 

今日は、久しぶりのブログですが、最近読んだ本のご紹介から始めたいと思います

 

日曜日の日経の見出しを、このブログのタイトルに入れましたが、2月で50代に仲間入りした、私自身身につまされる記事が、よく見受けられるようになってきました

 

中高年は苦しい立場に追い込まれているというこの記事の締めくくりは、だからこそスキルを学び直そう・・・といった内容でした

 

ただ、よく言われますが、

・WILL(自分がやってみたいこと)

・CAN(自分がやれること)

・MUST(自分に求められていることや期待)の輪でみて、

本当にそういう単純な話でしょうか?

 

ロボットではないのだから、スキル=CANを上げれば良いといった単純な話ではない

 

スキルを上げたいと思うところが出発点ではないか

 

でも、現実は、だんだん、気持ちに新鮮さが失われて鈍くなっていて、WILL(自分がやってみたいこと)はしょぼんでいっている

 

それでいいのか?

つまりは、自分のWILLを呼び覚ますところがスタートかと思いました

 

たまたま手にとったのが、城山三郎氏の著作「逆境を生きる」

  

逆境を生きる

逆境を生きる

  • 作者:城山 三郎
  • 発売日: 2010/02/26
  • メディア: 単行本
 

 

明治以降、政治や社会に翻弄されながらも、自分の信条によって、生を全うした男たちが描かれています

 

城山さんが書かれた内容を、時代順に3名の人物を軸にして、自分なりにまとめてみたいと思います

 

田中正造

日本初の公害事件と言われた、足尾銅山鉱毒事件を明治天皇に直訴した政治家として有名ですが、彼は反対運動の急先鋒であった谷中村に、十数戸の家族と立てこもります

衆議院議員であり、議長にも目された人ですが、財産を運動に投じて、最後はズタ袋に、小石と聖書とちり紙だけが残されていたと言われています

その谷中村で運動を続けていたときに、農民に対して言った言葉は、決して自暴自棄ではなく、彼なりの人としての矜持が感じられます

 

「役員と向かい合うときは、紳士的に応対すること

感情に任せて生意気なことを言ったり、利口ぶったことを言って、その時は勝っても、長い人生を生きていくときにしこりが残るかも知れない」

 

それに対して、役人も、嘆願書の受付時間の夜12時が過ぎても、時計を止めて待ってくれていたりする

役人が役人の立場を離れて、時計を止める

 

公害に対する反対運動としうWILLを貫きながら、一市民としてのMUSTを守る、則を超えない そして、CAN、できる限りのやり方で運動を続けていく

 

辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件 (角川文庫)

辛酸 田中正造と足尾鉱毒事件 (角川文庫)

  • 作者:城山 三郎
  • 発売日: 1979/05/23
  • メディア: 文庫
 

 

浜口雄幸

昭和のはじめに総理大臣となりますが、金解禁、軍縮、緊縮財政を成し遂げた、昭和5年(1930年)に、東京駅で銃弾を受けます

その後暫くして、その傷が元で亡くなりました

 

「自分は一身を燃焼させて、命を懸けてやってきたから、ここで斃れても、男子の本懐だ」と言ったそうです

 

ライオン宰相と呼ばれた彼は、風貌はいかつく、またもともと無口であったそうですが、 情熱+努力の人だったそうです

 

組閣にあたっては、性格も異なり面識もなかった、日銀の井上準之助を大蔵大臣によぼうとしますが、井上氏は難色を示します  浜口氏は彼を口説きます

 

「財政整理(公務員の一割減棒)をやればうらみを買う

軍縮をやれば、軍部のうらみを買う

デフレ政策をやるが、推進して命が助かったものはいない」

 

「しかし、死を覚悟してやる、自分と一緒に死んでくれないか」

 

井上氏は申し出を受け入れました

 

浜口氏の言葉です

「政治は国民道徳の最高標準たるべし」

「もっともっと多数の国民のためになる方法はないかと、右からも左からも上からも下からも考え抜くことだ」

 

本来、彼は政治家向きではなかったそうですし、大蔵官僚だったころあちこち地方にとばされたそうですが、どこに行ってもイギリスから「タイムズ」を取り続けていたそうです

もう東京へ帰れないとあきらめるのではなく、目線はつねに高く、時代の流れの先端とか大局をつかむ努力は忘れない

 

ようやく地方から、大蔵省本省に戻されると、塩業の官業化を行う担当を命じられます民間から恨まれてしまう役割

それでも、2年後、役所特有の異動がありますが、次の昇進ポストをことわって、塩業の仕事を引き続きやらせてくれと言う  

好きじゃないけれども、やりにくい仕事だから、やり遂げるまで替わるわけにはいかないと言います

 

また、政治家になったら演説をしなければいけないということで、無口な彼は、人の演説をきいてまわる、海へ行って演説の稽古をします

草稿は自分でつくりますし、演説の約束をしたら、かならず行きますし、丁寧にしつぎ応答をします

台風で道が閉ざされたら、車を捨てて、歩いて夜中の二時に会場に辿りついたそうです

そんな姿勢から、やがて総理大臣に推されるようになり、冒頭に挙げたように、野党からも自分たちのやることがなくなってしまうと言われるような政策を実現していきます

  

男子の本懐 (新潮文庫)

男子の本懐 (新潮文庫)

 

 

 

広田弘毅

 

A級戦犯で死刑になった7人の中で、軍人でないのは広田弘毅元首相の一人

城山氏は、戦争を起こさないよう最大限努力した人と記しています

 

外務省に入った広田氏ですが、当時の(今も?)外務省では、家柄が問われますが、世間的には魅力的な縁談を持ち込まれても、あくまで学生時代につきあっていた相手と結婚します

また、オランダ公使に左遷された時期がありますが、平戸・長崎にいって交渉史を学んだり、部下をインドネシアに派遣して、オランダの植民政策を調べたり、MUSTに誠実です

日本に戻って、総理大臣になってから、新居を探そうとすると、他の人が是非にと持ち込んでくる土地が、少しでも安いと断ってしまいます

「なぜなら自分は政治家だから」

 

彼は、近衛文麿が総理大臣になる際には、外務大臣を頼まれ、引き受けます

元総理経験者ですが、自らが必要とされていて、それに応えるべきだと判断する

 

そして、彼が外務大臣のときに支那事変がおき、やがて東京裁判で責任を問われてしまいますが、裁判では、一切自分の弁解をしない 

検事調書上では、広田氏は、すべて罪をかぶるようなことを言っている

 

城山氏によると、それは天皇に罪がいかないようにするため、日本が混乱に陥らないようにするため ある意味、「自ら計った」最初で最後ではなかったか、と記しています

 

そして、広田氏の痛烈な洒落


処刑にあたり、前の組の東条英機たちの天皇陛下万歳をきいて、「さっきの組はなにか漫才をやりましたね」

戦争を起こし、国民にも言わせ続けたにもかかわらず、相変わらず万歳をやっている連中がいるという、洒落

もちろん、自身が教誨師から、万歳を勧められても、断ります

 

落日燃ゆ (新潮文庫)

落日燃ゆ (新潮文庫)

 

 

 3.3人に共通するもの

 

あらためて、WILL,CAN,MUSTをもう一度3人にあてはめて考えます

 

<CAN>

3人とも、優れたCANの素養はあるけれども、CANを磨き続ける努力を怠らない

でも優先順位から言うと、WILL,MUSTの次ではないか

 

<MUST>

田中正造は地元の公害事件を目の前にしての代議士として

浜口雄幸広田弘毅は、それぞれ一国を預かる政治家として

それぞれ、MUSTを体現しているように見えます

でも、よくみると、自分がとるべきMUSTを選んで、積極的に取りに行っている

 

たとえば、広田氏は軍国主義を後押しすることは、MUSTとして捉えていない

つまり、前提にしっかりしたWILLがある

 

<WILL>

自分自身の内面にあるWILL

それは私利私欲ではなく、信条といったものでしょうか

 

 彼らは、しっかりとしたWILLをもっている

自分もどうしたら、逆境でもWILLを持つことができるか

 

4.WILLを失わないための知恵

 

評論家の山崎正和氏は、「柔らかい個人主義の誕生」でこう言っているそうです

 

寿命ものびた、休日が増えた、家族が核家族化してきた、国家の役割が小さくなった

一丸になって勝つ、経済大国になるという時代は去った

 

生きる目標は、国家や社会や会社や家が与えてくれるものではなく、良くも悪くも、一人一人が見つけていかざるをえない時代、


自分を支えてくれるものは自分しかいない

内心に秘めた、静かな強さが必要

 

 

 

生きる目標=WILLと言い換えてもよいかと考えます

 

50代の仲間入りをした自分も、WILLをもう一度しっかり取り戻し、持ち続けるためには、どうしたらよいか


城山氏は、アメリカの精神心理学の考え方を引用しています

 

人間を支える3つの柱がある

 

・self(自分だけの世界)

・intimacy(親しい人たちとの関係)

・achievement(達成感、仕事でも趣味でも良い)

 

あの浜口氏も鎌倉に別荘を借りて、1ヶ月に数回一人で足を運んで、座禅を組んでいたそうです

 

私自身、幸いにして、自分だけの時間を持つことができる余裕はある

身近に家族がいる

達成感という意味では、仕事ももちろんだけれども、このブログも含め、自分次第で見つけるができる

 

こういう環境を大事にして、WILLをしっかりと自分のなかで育てて、持ち続けたいと思います

 

 

4.逆境におけるWILLとは

 

最後に、この著作の中にある、浜口首相のエピソードを引用して、今日のブログを終えたいと思います

 

彼は、銃で撃たれたあと、「会期中にかならず登壇する」と約束します

国民に対する約束

 

しかし、病状が悪化して、靴が履くと歩けない

 

どうしても、国会に立ちたいと涙ながらに奥さんとお嬢さんに頼んで、布を靴の形に切り、それに墨を塗って足につけて、国会に立ったそうです

 そして、間もなく亡くなりました

 

私はそこに、WILLの力を感じます

 

それでは、今日はこの辺で失礼します

コロナウイルスは心配ですが、少しずつ春の足音が近づいてきていますね

皆様、残り少ないですが、よい週末を

 

ナゴタロ@名古屋の自宅にて

社会貢献とは? スペシャルオリンピックス日本・愛知のジョギング大会で感じたこと

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サンキューカード

 

こんばんは

日曜日の夜、あっという間に4月も最終週

正直、10連休をまだ受け止めきれておらず、来週をどう切り抜けるか頭が一杯です

 

昨日は、たべきれないほどのバナナ、そして菓子パン、おにぎり、ジュースなどをもらって、スペシャルオリンピックスの地域のジョギングイベントの帰り道につきました

 

スペシャルオリンピックス(Special Olympics 略称 「SO」)とは、知的障がいの方が参加するスポーツの練習から大会まで、一連の取組みをいいます

 

www.son.or.jp

 

SOの愛知のジョギング大会では、ボランティアとして、コースの誘導・警備係を担当しました

 

土曜日は天候も良く、運動日和

 

名古屋市の中の山崎川は桜の名所ですが、もう大分花も少なくなった桜ではありますが、春の気持ちよい匂いがあたりを満たしていました

 

赤のTシャツをもらって、パロマ瑞穂運動場のリクリエーション広場の、開会式に顔を出してみると

 

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ボランティアTシャツ

 

大勢のアスリートが集まり、なんと、大村知事、河村市長も登場

 

大村さん、河村さんは、いろんなところでお顔を拝見し、ユニークなスピーチぶりにはいつもながら、やや?でしたが、ちゃんとSOの活動に顔を出すとは、ちょっと見直しました

 

そして、正直スポーツにあまり関心のない私には、あまり価値がわかりませんが、

畑中ジム会長の畑中清詞さん、WBO世界フライ級チャンピオンの田中恒成さん、元中日ドラゴンズ立浪和義さん、名古屋グランパス山口素弘さん、名城大学女子駅伝部の皆さんもかけつけてくれました

 

アメリカでは芸能人も多く参加するというSOの活動も、日本ではまだまだ知名度が低いものの、それでも応援する有名人は少なからずいるんだなーと感じました

 

誘導・警備係そのものは、そんなに大変ではなく、看板をもって声がけをするのが役割

 

むしろ、アスリートに声がけできることが楽しかったです

 

ひとりひとりの顔をみて、感じた言葉をかける

そんなコミュニケーションが楽しかったし、一生懸命がんばっている人を応援するっていうのは楽しい

 

土曜日の午前中半日でしたが、いや~これははまるなーという感じでした

 

実は、たまたま山崎川は一年前くらいまでは、自分自身の朝のジョギングコースだったのですが、自分が走らんでも、たまには人の応援するのも楽しい、ということがわかりました

 

とくに、気候が良かったからかもしれませんが、いつもの仕事や役割から離れて、めざすことがシンプルで、身体をつかって、相手とコミュニケーションできる、そんな役割が自分にもある、できる

 

以前、社会貢献活動って「偽善」だとか、あるいは、自己満足になりがちだ、といった言葉をきいたことがあります

 

感じたこと

 

それは、確かに自己満足には違いないということ

楽しくなかったらやらない、やりたくない

 

 

開会式で、ボクシングジムの畑中さんが、アスリートに向けていった言葉

 

楽しんでほしい でも、ちょっと我慢したり、努力したりする(ことも含めて)・・・といった内容だったと思います

 

スポーツを通じて得られることは、自分の身体と対話して、すこしハードルを上げていきながら、達成感を味わえる、喜びを感じられるということ

 

それは、社会貢献も同じで、お客さんに対して一定の役割をちゃんと全うすることが前提、でもそれを通じて、自分の存在意義を確認できたり、達成感を味わうことができる

 

身内の方のお世話で大変とか、もっと身近な地元や家族・親戚のために自分の時間を費やすのに精一杯な方も多いと思う

 

そういう意味では、会社のメンバーが言う、「社会貢献は余裕がある人がすること」と言うのも分からないわけではない

 

ただ、社会貢献は「人のためじゃなくて、自分が気持ちよくなるため」にやってもいいんじゃない?と正々堂々と言いたい

 

疲れた身体や心を癒すのに、参加させてもらっているという、それでいいと思う

 

やるからには、ちゃんと、相手に喜んでもらう(=自分もうれしい)ために、きちっと役割を果たすことが大事ですが

 

今回は、最近いろいろと職場でのもやもやを少し溶かしてくれたボランティア経験の話でした

 

お読みいただき、ありがとうございました

 

明日は月曜日ですね

お仕事がまた始まる方も多いと思います

お互い、一日一日、精一杯生きましょう!

 

おやすみなさい

 

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組織風土の悩み 若手が動けば変わるのか!? 進め方に悩んでいます

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ビルの谷間の春
 

おはようございます

私達がいるビルには屋上庭園があり、八重桜が植えられています

4月中旬にして、ようやく蕾が開いてきたところ

 

今日は、ちょっと贅沢?な悩みについて、書きたいと思います

 

働き方改革」を会社の中で進めるにあたり、まず自分の部署で週1回ミーテイングを行って、「カエル会議」を通じながら変えていくという試み、これは続けていますし、紆余曲折はありますが、手ごたえは感じています

 

ただ、目に見えてはっきり、くっきり、効率化とか改善とかというより、関係性を良くしていきながら変えていこうという漢方薬みたいな進め方ということは自認しています

 

あと、カタチにこだわらず、日々の業務というか、職場では、メンバーと向き合う、カッコつけずに、自分をさらけ出す、そして、「その場で判断というか、決断していく」よう、まず自分を変えていくことで、信頼関係をつくっていこうとしています

 

 

一方、会社としては、たとえばオフィスレイアウトを変えたりといった、目に見える改革も進めています

 

その手始めに、会社横断で若手を中心にプロジェクトチームをつくって進めてきていて、ある程度カタチもできあがってきました

 

そこまでは、大いに結構だと思うのですが、カタチができあがって、実際にオフィスレイアウトを変えて運用するフェーズに入ってくるにあたっては、「運用する側」の人たちが主役になってくると、私は思います

 

たとえば、フリーアドレス

 

かなり以前に苦い思い出があって、10年間くらいに新オフィスに移転したときに、フリーアドレスを導入したのですが、3年くらいかけて、また元の鞘におさまってしまいました

 

その理由は、運用する側が「フリーアドレス」にメリットを感じなかったから

 

カタチ先行も結構ですが、すべての仕事に意義があるように、レイアウトにも意義があって、その意義は、どこかの誰かが引っ張ってくるものではなく、運用する側が意義を見出さなければいけない

 

これは、その意義が、単体で立派なものであるとかそんなことではなくて、誰がその意義を見出すかということが大事だと思う

 

いま、若手が一生懸命につくってくれた、オフィスレイアウトのカタチは、自由度と汎用性があって、誰も文句を言うひとはいない

あとは、それを運用する側、すなわち、各部署のひとたちが、その部署として、どういう風に、使っていこうという観点で「いかに考え」「いかにトライしていくか」が大事

 

ところが、いま事務局内で意見がぶつかっている

 

私は、これから改革をすすめるためには、各部署でいかにそのカタチを受け取って、使いこなすかに力点をおくべき

 

もう一人は、引き続き、全社横断の若手チームが、いかにそのカタチをよりよいものに仕上げていく、あるいは改善していくかに力点をおくべき

 

たしかに、オフィスレイアウトはできたら終わりではなく、横串でPDCAをまわして改善していく組織は今後も継続して必要だから、全社横断のチームはあっても良いと思う

 

視点の置き方が、お互い?片寄りすぎているだけかもしれない・・・

 

あと、気になるのが、「若手」だけということ

 

「若手」だけだと、視点が片寄ってしまう

 

担当としての視点

マネジメントとしての視点

 

両方が必要なので、全社横断組織には、一人でも二人でも、どこかの部署のリーダークラス、マネジメントクラスを入れておいた方が良いと思う

 

任期制にして交代していけば、そのリーダーの視野が広がるということで、いわば人材育成の一環にもなる

 

ということで、すみません、今日は月曜日を迎えて、新しい「働き方改革」の組織を早く決めたいのですが、悩みを書いてしまいました

 

それでは、今日は始発かその次あたりで会社に行きたいと思います

 

みなさん、よい一週間を!

行ってらっしゃい

 

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